つくられた憎しみ

幕末の戊辰戦争で会津藩に刻まれたという「長州に対する怨念」、調べてみるとどうも戦前に一度鎮火し、そして戦後になって再度燃え上がっていったという経緯があるようです。戊辰戦争で賊軍と呼ばれた会津は、その後1920~1930年代において雪冤運動・秩父宮家と会津松平家の縁談・徳富蘇峰の擁護講演等を経て「勤王精神の範」として国民の物語に復帰し、これによりその怨念は一度鎮火する。しかしその後先の戦争の敗戦を機に「勤王精神の範」はリセットされることとなる。戦後、会津若松市商工観光部長宮崎十三八は、歴史小説家司馬遼太郎らの描く会津もの小説を背景に「無垢な敗者たる会津」「悲劇の会津」のイメージを全面に押し出し、戊辰戦争の観光資源化を押し進めていく。実際に検索してみるとすぐわかることですが、会津の悲運を嘆く記述の多くが司馬遼太郎の小説を論拠としていて、その夥しさは驚くほどです。そして『街道をゆく』で自ら書いている通り司馬遼太郎は会津藩に特別に肩入れしています。例えばしばしば例に挙げられる会津側の戦死者の遺体の回収が許されなかった件ですが、新政府軍側も同様ですのでなぜそれが「長州に対する怨念」に繋がるのかよくわかりません。ただ少なくとも、会津の読者には新政府軍側の戦死者も同様の扱いであったことは伏せられている。そういう情報操作があることがわかります。会津戊辰戦争120年祭の際には「もう120年もたったので」と萩市が和解と友好都市締結を申し入れるも「まだ120年しかたっていない」とこれを拒否。最早戊辰戦争の観光資源化を図った宮崎十三八にも想定も制御もできないほど、その憎しみは大きなものとなっていたようです。事実無根と言う気は全くありませんが、多分に改めて「つくられた憎しみ」と言うことが出来そうです。しかし彼らの中ではその憎しみが真実です。まるで忠臣蔵を真実そのものだと信じ、吉良上野介を真剣に憎悪するようなものです。そんな人は滅多にいないでしょうけど。 個人的には、憎しみやルサンチマン等は一瞬姿勢制御に利用する程度使えばいいものであって、自らの拠って立つフレームやメインエンジンの主燃料として使うべきではないものだと思います。そんな使い方をすれば時自家中毒となるのは必定と思われます。ともあれ歴史は不断に問いかけ問いかけられるもの。そして時代が下るにつれ情報技術は進歩し、歴史の不断の営みはその回転を増していきます。いずれその憎しみが本物か問われる時が来ると思うのです。司馬さんも宮崎さんも若宮さんも植村さんも。

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